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2017年8・6ヒロシマ平和の夕べ
(以下、要旨/文責/見出しとも、「平和の夕べ」事務局)

●平和講演 「被爆者の声を届けた表現者たち」
         永田浩三さん(『ヒロシマを伝える』著者、元NHKプロデューサー)

7月7日、前文に「広島、長崎の被爆者、核実験の被害者を含むヒバクシャの苦しみに心をとめる」と書かれた、核兵器禁止条約が国連で採択された。日本政府はこの会合に不参加を表明した。必要悪とも言われてきた核兵器が、「絶対悪であり、人道に対する重大な罪である」と明記された。その意味で、今年の夏は、特別な夏になった。 ヒロシマ、さらにナガサキへの原爆投下は、何が目的だったのか。昨年ヒロシマを訪問した米オバマ大統領は「死が空から降ってきた」と言った。しかし、原爆は人為的に投下された。ソ連の参戦、日本降伏のぎりぎりの時、アメリカはどうしても原爆を落としたかったのである。しかも人々、子どもたちも、多くが街に出ている、あの時間の投下である。明確な事実は、今もわかっていない。 それらの解明、核廃絶のために、原爆、被爆のことを命がけで告発してきた先人たちの努力から、学び引き継がなければならない。
オバマ大統領の広島訪問の際、抱擁を交わした日本被団協の坪井直さんは、原爆投下からビキニ水爆実験、第1回原水禁世界大会の1955年までを「空白の10年」と言う。それは事実と異なる。確かに、占領軍に封殺される状況はあった。しかし、そのもとで弾圧を恐れず命がけで原爆のすさまじさ、悲惨さをさまざまな表現を通して明らかにし、2度と核兵器を使わせないというたたかいがあった。 「死刑になっても」
投下直後、『讀賣報知新聞』は「原子爆弾」という用語を使い、連載を組んだ。その後、当局から発禁処分を受けるが、当時190万部の発行部数を持つ大新聞の気骨を示した。9月5日には英紙『デイリー・エクスプレス』が「原爆の疫病」と題する特集記事を掲載。この時、妨害をはねのけて来日した特派員に現地を案内したのは、同盟通信の記者・中村敏である。その記事が原爆投下の惨劇と急性放射線障害の恐怖を世界に発信した。
その後、占領軍によるプレス・コード、検閲により従わなければ発行・業務停止とされた。組織ジャーナリストがほとんど屈服するなかで、広島の作家たちは発信を続けた。よく知られているのは大田洋子。1945年8月30日、朝日新聞に原爆の悲惨さを文学者として初めて書いた。11月までに小説『屍の街』を完成。48年に一部削除したもの、50年に完全版を出版した。原民喜、栗原貞子、正田篠枝、峠三吉らが次々に原爆、被爆を主題に作品を発表。「軍法会議にかける」という恫喝に屈せず、「死刑になってもよいという覚悟…」(正田)と、それぞれの表現で原爆投下を告発した。 朝鮮戦争と被爆者
1949年、大幅な合理化、解雇に立ち向かった日鋼広島争議は、ヒロシマを伝えることに大きな役割を果たした。支援や取材に集まった四國五郎、峠三吉、山代巴、川手健、赤松俊子(丸木俊)らが合流した。峠三吉は、この争議に関わったことを「やれそうだ! なにかやれそうだ! 生きていてよかったと言えそうな何か…」と記している。争議は結果として負けるが、1949年10月2日、歴史的な「平和擁護広島大会」が開かれた。初めて「原子兵器禁止」の決議があげられる。その会場に朝鮮人女性が半数を占めた。当時、朝鮮学校や朝鮮人連盟に弾圧、解散命令が出されるなか、朝鮮人との連帯が始まった。 50年6月25日、朝鮮戦争が始まる。「2度と原爆を使わせてはならない。ヒロシマを繰り返させるな」と、たたかいは活発化する。八丁堀の福屋百貨店屋上からは、ゲリラ的に大量のビラがまかれた。 バトンを引き継ぐ
峠三吉、山代巴、川手健らは声をあげられない被爆者を訪ね、その思いを詩や文章にしてもらった。まだ「被爆者」と呼ばれなかったころ、それこそが被爆者運動の原点になった。しかし、被爆者が置かれている困難な状況の改善は、簡単には進まない。峠三吉は亡くなり、川手健は自死した。家族、住む家を失い、医療費がかさむ。貧困と差別のもと、被爆者自身が運動を広げていくことは本当に厳しい。多くが、傷つき倒れていった。
「空白の10年」は、決してそうではなく格闘の10年であった。声をあげられない人々の声を拾い、言葉や絵で人々の声と思いを表現し発信した。「この世界で何が起きたのか」。その輪郭を彼らは与えた。このバトンを引き継ぐ努力を、私たちは忘れてはならない。

●被爆証言 「私はもうだめだ。きみは、がんばれ」
         父が生徒に言った最後の言葉〜 小野瑛子さん

広島で生まれ、6歳のとき被爆しました。ブラブラ病といわれ、ようやく元気になってからも紆余曲折でした。65歳のとき甲状腺障害、がんの疑いで全摘。いまは肺がん治療中ですが、被爆を継承し平和を築きたいという思いでいっぱいです。
父は、廣島二中の1年生の担任でした。6日は彼らを引率、被爆死しました。姉は、朝いっしょにごはんを食べ学校に行き、被爆し亡くなりました。廣島二中の1年生321人は全滅です。彼らの様子、亡くなる前に言い残した言葉などを集めたテレビ・ドキュメンタリーがあります。本にもなっている『いしぶみ』(ポプラ社刊)です。爆心500メートル付近です。母や私は、父は即死したと思っていました。この本が伝えた生徒さんの言葉。「けがのひどかった先生は『私はもうだめだ。きみは、がんばれ』と手をにぎって別れた」と、5学級の下野義樹くんが言い残しています。本で初めて父の最期を知りました。
姉の洋子はその朝、登校した観音国民学校で被爆。母は裂傷を負いながら姉を捜しにいこうとしたのですが、私が泣くし、炎に遮られて行けません。逃れる途中、黒い雨を浴びました。8日になって、草津小学校でようやく亡くなった姉を見つけました。
その後、一度は私を連れて死のうとした母は、戦後2年目に英文の手記を書き世界の人々に原爆を発信しようと『タイム』誌に送りました。しかし、連合国軍総司令部(GHQ)に呼びだされ没収され、かないませんでした。母は1978年に甲状腺がんで亡くなり、遺品のなかに見つけ、私が『炎のメモワール』にまとめました。
福島原発の大事故が起こり、難しい条件はありますが福島の人たちに「健康手帳」を持ってもらいたい。そのとりくみをおこなっています。核兵器禁止条約が採択され本当にうれしく思うと同時に、日本政府が反対の立場をとっていることを変えさせたい。

●福島から 「二度と原発事故を繰り返させない」
         大塚 愛さん(福島避難者、岡山県議)

自給自足の生活を志ざし原発事故まで12年間、福島県の川内村で家族と暮らしました。大震災と原発事故は、その暮らしを断ち切ってしまいました。 テレビでは「安全、クリーンなエネルギー」と言っていましたが、原発で働いていた人が白血病で亡くなるなど、地元では決して安全ではないと肌で感じられていました。
最も起こってほしくなかった原発事故が起こってしまいました。環境中に放出されたセシウムは広島型原発の168個分。セシウム137は半減期が30年、長期にわたって被ばくします。避難勧告が出た地域以外にも拡散しました。6歳の子どもが「放射性物質」という言葉を覚えて使うのはつらいです。見た目には、町も山も風景は変わりませんが、人々の暮らしは大きく変えられました。
 私は郷里の岡山に避難、事故2カ月から「子ども未来・愛ネットワーク」を立ち上げ、子どもたちの保養や避難者への支援を始めました。これまでに保養は11回、のべ480人の親子が参加しました。海辺に行った4歳の女の子から「お母さん、ここの砂はさわってもいいの?」とたずねられ、母親は「どんなにガマンをさせてきたのか」と話していました。
原発事故が第1の災害ですが、2年後くらいから「放射能への不安」をお互いに話し合うことができない、そういう心の分断も第2の災害です。私自身も、福島での暮らしのすべてを失いました。大きな悲しみと、世界が崩れたようなショックでしたが、それでも何かやらねばと走り続けた6年でした。
家族で避難、お父さんは福島で働くために残り、母子で避難、単身、避難から移住へ、戻るのかとどまるのか、それぞれの苦難があります。今年3月、自主避難者にとって唯一の支援、住宅援助が打ち切られました。残した家、仕事、おじいちゃん、おばあちゃん、家族の分断。避難者、自主避難者の悩み。政府や福島県は、その選択の違いを認めず「復興、復興」です。とどまる人にとって福島が復興していくことは大事です。でもそれに片寄れば、被ばくを避けようという選択は置き去りにされてしまいます。「子ども被災者支援法」では居住する権利、避難する権利、帰還する権利がそれぞれ書かれていますが、それは実行されていません。
新潟の避難者交流会で、参加者の8、9割が「『はだしのゲン』を読んだ」と話しました。ああ、こういう人たちが自主避難という困難をも選んだのだと思いました。福島県の県民健康調査では、今年6月時点で甲状腺がんの子どもが191人です。増えています。全国21の地域、岡山でも福島原発岡山訴訟を起こしています。広島、長崎のみなさんが72年間、心血を注いでこられたことに敬意を表し、被爆者の方々のためにも福島の被災者は声を上げます。
黙ってしまえば、次の命を守ることができません。

●歌とトーク 「しつこく、どんどんやる」 川口真由美さん YASUさん

川口真由美さん 『何という胸の痛みだろうか』『悲しみから生まれた平和への道』『ケサラ』を、沖縄から参加したYASUさんと『沖縄、今こそ立ち上がろう』を熱唱した。川口さんは「私も、子どもたちを絶対戦争にやりたくない。子どもたちが安心して暮らせる世界を作りたい。」
YASUさん 「沖縄に配備されたオスプレイ24機のうち2機が墜落、3機目も落ちた。日本は、それを購入する。おかしいですよ、原発も同じ」と話した。

●まとめ 「加害と被害、若い人に伝えたい」  米澤鐡志さん(広島・電車内被爆者)

2008年からずっと参加してきた。小出さん、中沢さんら多くの人が反核、平和を訴えてきた。この集いを続けていきたい。きょうも4人の方のお話に聞き入った。私も1000回以上の被爆証言をしてきた。最近、京都の看護学校で話し、生徒さんから「空襲、沖縄戦、原爆があったが日本による朝鮮、中国、アジアへの加害があったことを知らなかった」と感想をもらった。私たちは若い人たちに被害と加害の事実をしっかりと伝えたい。

会場の様子