●平和講演 「核を持ってしまった世界へ 広島・長崎を体験した責務、核廃絶を問う」
森 達也さん
映画の仕事で海外に行くことも多く、広島、長崎を知らない人はほとんどいない。しかし、そこでどのようなことが起こったのか、原爆とは何か伝わっているかどうか。とくに核兵器を投下した国アメリカでは、いまも「戦争を終わらせる正当な行為だった」という人が多くいる。「戦争を終わらせる」ためだったか
オバマ広島訪問の際、謝罪に言及しなかったのも、そうした意識を持つアメリカ国民を強く意識したからという。どう考えても、原爆投下は明らかな国際法に違反し、「正当な戦争行為の延長」でもない。二つの都市と数10万市民を犠牲にして戦争を終わらせようとしたのか、そうではないだろう。都市、市民への実験をしたかった、世界へ示威など理由はいろいろあるだろうが、とても納得できることではない。でも、それがアメリカではなかなか伝わらない。とくに50代以上の人々は、「あれは正当な行為である」と答える人が多いようだ。
アトミック・ソルジャーたち
ぼくは、以前『アトミック・カフェ』という映画をみたとき、謎が一気に解けたということではないが、そういうことかと少しわかった。日本でも公開されたけど、ヒット作でもない。新たな撮影ではなく既存のフィルム、音声資料を使ったアーカイブ・ドキュメンタリーだ。多くの印象的なシーンがある。使われている素材は、戦争中や冷戦期にアメリカという国家が国民に啓発啓蒙の資料、あるいは米軍内での教育用資料として作った映画やテレビ番組、当時のヒットソング、アニメなども使われている。
ニューメキシコでの原爆実験のとき、周囲の壕に米兵が配置される。爆発後に、きのこ雲に突進させている。当然被爆し、彼らは後にアトミック・ソルジャーと言われた。社会問題にもなり、多くの人がガンなどを発症し早くに亡くなったり、子どもに何らかの異常が出たりした。
冷戦期、原爆・水爆は抑止力とされ、実験が行われた。ぼくは原爆・水爆はリミットを超えており、抑止力というものがあるとしても、使えないと思うけど。いまだに、その抑止力論がはびこる。アメリカ側に「ソ連なんか滅ぼしてしまえ」という人もいた。しかし、それなら当然反撃を受ける。そのとき、どうするのかという啓発の映画、テレビ番組が多く作られ、実際に使われた。冷戦期の政府広報番組、それで国民に衆知させようとした。
光ったら「さっと隠れ、頭を隠せ」
例えば、このようなシーン。「小さな木箱に入って」爆風をやり過ごせ。原爆実験の壕に入るアトミック・ソルジャーに上官が訓示する。「きみたちはガイガー・カウンターを着ける。怯える必要はない。熱線さえ防げばどうってことはない。しかし傷があると、そこから放射能が入るから絆創膏を貼っておけ」。兵士たちは肯き、きのこ子雲に銃を持って突進していく。大真面目、その程度の認識だ。アメリカ人の多くは核兵器、原爆とはどんなものかわかっていない。原爆投下後の広島を見た米兵へのインタビューでは「ダブルヘッダー後の球場のようだ」と話し、聞いた人たちは大笑いしている。子ども向けのアニメ、亀のパートくんは「ダック&カバー(Duck and Cover、さっと隠れ頭を隠せ)」。放射能は怖くない、ピカッと光ったら物陰に隠れろとか。そのレベルだからこそ、投下した。
相互に刺激し合うプロパガンダ
いま大学で学生たちに映画をみせると、プロパガンダの恐さは実感する。その対象がアメリカ国民だということもわかる。だけど誰が発信しているかというと、考え込んでしまう。大統領か政治家か、軍の上層部なのか、テレビやラジオ局の経営者かプロデューサーか、わからない。マンハッタン計画に参加した科学者たちは、核をわかっていただろうが、アメリカの国民、兵士たちは超巨大な爆弾くらいに思わされた。 つくづく思うのは無知、知らない恐さ。プロパガンダとは普通に考えると独裁者とか、邪な意識を持つ為政者が国民を洗脳するのがプロパガンダと思っている。しかし、ほとんどの場合はする側もされる側もわかっていない。知らないままにお互いに宣伝し刺激をうけ、どんどん高まってしまう。その結果、どんでもないことをやってしまう。
昨日、アメリカの研究者2人が「日本に(戦争終結のため)原爆を投下する理由はなかった」というリポートを発表したというニュースがあった。いまだに、ニュースになるというのがアメリカの現状でもある。悪意はないが無知はある。
昔の話、遠い他国のことか
映像を見ながら、昔話なのか遠い国のことなのか考える。4年前か、北朝鮮が実験ミサイルを発射したとき。実験だから火薬も、もちろん核兵器も積んでいない。日本の上空450キロ、国際宇宙ステーションよりも高い高度を飛んだ。日本は政府がアラートを発し、電車や地下鉄を止め、「物陰に隠れろ、破片が落ちてくる」などの騒ぎになり、そういう訓練すら行なわれた。
東日本大震災、福島原発の事故のとき家を流され家族を失い、多くの人がとんでもない理不尽に苦しみ逃げまどっているとき、私たちは家で暖房を使い冷蔵庫を開ければ食べ物もある、電気も使っていた。これは何だとテレビを見ながら思った。その不条理。それは広島、長崎、沖縄、東京や各地の大空襲についても同じ。その後ろめたさ、サバイバル・ギルティ(生き残ったことの罪悪感)、その罪責感が大事だ。だけど後ろめたさというのは、持つのがつらい。だから、振り返りたくない。
「過ちは繰り返しませぬから」
別言すれば加害性。ぼくらも加害者だ。百田尚樹氏が広島で講演し、「過ちは繰り返しませぬから」という慰霊碑の言葉に、違和感を持つか否かで日本人としての民度がわかると話したという。つまり「碑文はおかしい。過ち、原爆を落としたのはアメリカだ。悪いのはアメリカなのに、なぜ私たち日本人がそう言うのか」ということだろう。ぼくは、この碑文は好きだ。私たちは繰り返さないという意味は大きい。呉、広島は軍都だったこと。広島、長崎も一人ひとりは加害者ではなかったが、だけど戦争に加担していた。被害者でもあるが、加害者でもあった。どちらかだけではない。どちらも大切だ。被害も加害も、どちらもしっかり刻み、残していく。後ろめたさは、うっとうしい。忘れたくなる。そう言うと自虐史観と言われる。最近、その傾向が強まっているのではないか。
そういう位置で被害と加害、その責任をどう考えるか。福島原発の大事故のときに気がついた。被爆国であり、狭く地震の多い日本に原発が54基も造られた。米仏に続き世界第3位の原発大国だ。ぼくも、それは福島事故の前から、知っていた。同じ映画の友人、鎌仲ひとみの映画も見ていた。だけど、なにか他人事だった。放射能の知識も、一応あった。突き詰めて考えていなかったのか。原爆とアメリカも、それは同じでは。いまだ加害の意識をきちんと持ち得ていない。だからこそアメリカは、戦後もずっと戦争の歴史を続けてきた。 被害者であり、加害者である
ぼくたちは被害者であり、同時に加害者でもある。そう思いながら、あの碑を見つめる。いま、この国は歴史、自分たちの加害に目を背けようとしている。被害を伝えることは大切、声を大に言い続けなければならない。同時に、自分たちも加害の側にいる、その後ろめたさを持つ。しんどいけど、それは広島、長崎を体験した、この国のぼくたちの責務ではないか。他の国、人々に原爆とは何か、放射能を浴びどうなるか伝え続けながら、もうそろそろ違う展開にしていきたい。(要旨・文責/事務局)