原爆の世紀を生きて-爆心地からの出発- 著者/米澤鐵志
『原爆の世紀を生きて-爆心地からの出発-』
米澤鐵志 定価1400円+税
2018年8月6日
アジェンダ・プロジェクト発行
■書評:山下 徹
 本を手にして、まず目次に引き付けられ、そして一気に読んだ。その目次から紹介する(サブ見出しは省く)。
 Ⅰ戦争中の生活と原子爆弾 Ⅱ戦後の広島の街で Ⅲ峠三吉をめぐって Ⅳ京都に移住-学生運動に没頭 Ⅴ医療の現場で Ⅵ父-米澤進のこと Ⅶ平和を求めて Ⅷ3・11以降-「老後」を反戦・平和にかける 〈報告〉医療汚職の伏魔殿、厚生省
 以降、あとがき、著者紹介となっている。  随所に、テーマに添ったコラムが置かれている。著者の人となりも伺え、一息つくのにちょうど良い。Ⅰは、戦時下の生活、学童疎開、路面電車内での被爆、その後の広島市の惨状と体験が詳細に描かれる。
 「その何秒か後に強烈な閃光があり、それからもの凄い音がした。原子爆弾が落ちたのである。音の凄さは百個の雷が一度に鳴り響いたとでも形容するしかない、そんな凄まじさであった。音だけではない、爆風が飛び込んできて電車のガラスはいっぺんにぶち破れ、窓側にいた人はガラスの破片を浴びて血だらけの状態である」
 その後、米澤さんは母親とともに「死の街」を歩き、「黒い雨」を浴びる。証言は貴重である。広島に多くいた朝鮮人の学童は集団疎開から排除され、むろん縁故疎開もできなかった。そのため多く子どもたちが被爆死した。米澤さんは被爆を通し在日朝鮮人への差別を憤り、朝鮮人被爆者問題、被爆外国人問題に触れている。
 ⅡからⅣにかけては、戦後の広島での少年期の活動と京都を中心とした関西での青年期の運動を振り返る。そこに思わず引き込まれる。米澤さんたちが心血を注いだ少年期から青年期の、戦後日本の社会主義、共産主義運動の躍動感と、同時に苦い現実もある。
なかでもⅢ「峠三吉をめぐって」は、著者だからこそ語ることができる、研究者も驚くような場面が峠三吉の有名な「1950年の8月6日」の詩とともに迫ってくる。
 「この日私は、中国地方委員会の指令でビラの入った風呂敷包みを持って福屋百貨店に行き、五階の踊り場で、首に日本手拭を巻き、団扇を持った朝鮮人の青年にその包みを渡した」
今夏、広島と京都で公演があった朝鮮戦争をめぐる弾圧と“1950年分裂”という日本共産党指導部の解体的危機のもと、プレスコード下で峠を中心とする「われらの詩の会」や日鋼争議をたたかう青年たちの青春群像を描いた演劇『河』(作・土屋清、峠三吉だけが実名で登場)の、あの時代に、少年の著者は深くかかわっていたのである。
字数の都合でくわしく触れることができないが、Ⅴ以降も、米澤さんの今日までのたゆみない、飽くなきたたかいの軌跡が記述されており、その内容は発見と学びの連続である。そして著者のたたかいには、常に、虐げられる者への深い愛情と虐げるものへの激しい怒りがその根底にあることが良くわかる。
『ぼくは満員電車で原爆を浴びた』(小学館)とともに、ぜひ手にしてほしい書である。
■書評:石塚 健(投稿)
 数年前、米澤鐡志さんの前著『ぼくは満員電車で原爆を浴びた』を読んだとき、その被爆の凄まじさにあらためて原爆の恐ろしさを感じるとともに、被爆体験を若い世代に伝えようとする熱意に感動した。
 今回の新著はその被爆体験に重ねながら、米澤さんが「物心ついてから平和に通じる一筋の道を歩いてきた」“自伝”である。社会変革を志し、一筋の道を歩いてきた人の記憶は、たとえそれが時代の制約によって多くの誤りや反省すべき点を持っていたとしても、同じように新しい道を歩こうとしている次世代の人間を励まし勇気づけてくれる。
 自伝といえば有名なところではトロッキー『わが生涯』や荒畑寒村の『寒村自伝』があるが、市井の中で思想を担う責任と家族を支える生活との間で苦闘した多くの無名の活動家が、書きたいと思いながら書けなかった“自伝”は、人の内面を動かす。本書は社会主義に夢と希望があった時代に、平和と社会主義にめざめた青年の生き様と戦後の社会主義運動の問題点が描かれ、惹きつけられる。
 米澤さんの出発点の環境は、思想的には恵まれていたと思う。戦前から無産者運動にかかわっていた医者であるお父さんの影響で、少年時代から政治活動に参加し知識と経験を広げていった。ときにはアカの子どもと呼ばれ苦労もしたであろうが、先を歩くものの自信と誇りを持ち続けていた。後に政治路線を巡りお父さんと決別しながら、深いところで共通の地盤に立っていた、うらやましい環境である。普通の家にはそんな環境はない。私のオヤジなどは、私に「好きな道に進んでよいが、アカとヤクザと宗教団体には絶対に入るな」と繰り返し説教していた。しかし、20歳のとき社会主義思想に出会って、目の前の霧がいっぺんにはれたような思いをして以降、私も一筋の道を歩くようになった。
 米澤さんは学生運動の以降も社会主義をめざしながら、一方で「真理と正義を独占している」と思い込んでいる前衛党との格闘も続く。やがてそれは社会主義への日本の道をめぐる理論闘争、組織的にも新しい前衛党をつくる運動になっていく。8、9歳ほど先輩に当たるが、本書を読むと同じ会合、大会、場所に当時の私もいたようである。その運動もさまざまな理由で消滅した。あの時代を知る人も少なくなったが、誰かが書き留めておく必要があろう。
 働く場であった病院事務長の立場から見た当時の革新自治体についての言及、「医療汚職の伏魔殿、厚生省(当時)〜官・産・医の癒着が生み出す薬害」なども、今と未来を考えさせる問題である。
 84歳にして沖縄・辺野古、ヒロシマ、反核・反原発(金曜日の関電、キンカン行動)、Xバンド米軍レーダー基地抗議などの現場に立つ。その声を多くに届けたい。一読をすすめる。

ぼくは満員電車で原爆を浴びた 語り/米澤鐵志 文/由井りょう子
『ぼくは満員電車で原爆を浴びた』
米澤鐵志 定価950円+税
2013年7月13日
小学館発行
■書評:竹田 雅博
 あの日、小学校5年学生だった米澤鐵志さんの証言。広島・福屋デパート前(爆心から750メートル)を通過中の路面電車内で被爆した。被爆後、戦後を生きた米澤さんは「被爆の語り部」として50年以上、話してきた。最近の10年だけでも300回近くになる。
 話を聞いた多くの人たちから、体験を本にしたらどうかと勧められた。しかし、米澤さんは断ってきた。「少年時代のぼくの記憶に、間違いがないとはいえない。歴史家でもないし、不正確な記録を残しては」という危惧があった。「原爆を表現した絵画、文学、詩、小説、報告、『はだしのゲン』など、いくらもある。いまさら自分が書かなくても」と思っていた。
 しかし、東日本大震災。福島第1原発の事故。考えが変わった。「8月6日、9日、15日があり、大人も子どもも、もう戦争も原爆も絶対に嫌だと思った。ところが原爆は原子力の平和利用としてよみがえり、そして福島の悲劇をもたらした」「核と人類は共存できないと、あらためて強く感じた」。さらに「大勢の人が絵も文章も残せず、何もいえず死んでいった。生き残ったぼくは、残さなければ」(あとがき)という。
 米澤さんは、8月6日に至る戦前の日本、暮らしを、小学生の目をとおして語る。「欲しがりません、勝つまでは。甘い物も野球のボールもなくなった。勝てば、世界の豊かな物資は日本のもの」。中国への戦争から太平洋戦争へ突入。勝った、勝ったといいながら、日本の都市は毎日空襲に晒される。やがて学童疎開。そこでの苦しい毎日。お母さんに助けを求め、やっと母、妹と生まれたばかりのもう一人の妹と、縁故疎開に行くことができた。
 日用品を市内の実家へとりに帰ろうと、母親と二人、早朝、芸備線の一番列車に乗った。それが8月6日だった。広島駅に着いたのが7時30分。大混雑、行列し8時に満員の路面電車に乗った。広島の中心部、八丁堀の福屋デパート付近に電車が到着したのが、ちょうど8時15分だった…。
 爆風は秒速200メートル。満員電車の真ん中にいたため、熱線、放射線、ガラスの破片が周りの人を直撃し、かろうじて助かった。母親と北の白島(はくしま)方面へ逃げながら見た光景。飛び出した片方の目玉を、頬のところで手に掬っている女性。被爆者の写真や絵が、幽霊のように手を胸の前に出しているのはなぜか。3千度といわれる熱線に焼かれた火傷。上腕から水脹れが始まり、皮膚が裏返しに垂れてくる。その皮膚が指先の爪で止まり、垂れ下がる。無意識に、身体に当たるのを避け前に手を伸ばすからだ。即死を免れた人も数時間後から嘔吐、火傷、脱水によるショック、急性放射能症に侵される。1週間、10日後から高熱、脱毛、下痢、吐血…。12月までに約14万人が死んだ。いっしょに逃げた米澤さんの母親は、全身に斑点が出て9月1日に亡くなった。母親の被爆後、疎開先で1週間ほどお乳を飲んだ1歳に満たない妹も、同じように脱毛、斑点症状が出て10月に死亡した。
 米澤さんは、朝鮮人の被爆について話すのを忘れない。当時35万人といわれた広島市民。そのうちに約5万人の朝鮮人がいた。同じように被爆しながら、日本人に比べ桁違いに死亡者が多い。仲良くしていた朝鮮人の友だちにも、二度と会えなかった。彼らには「疎開先」はなかった。線量が高い市内に、被爆直後から掘っ立て小屋を建て、太田川の水を飲んで住んだ。米澤さんは、被爆の証言のなかで時間を割いて朝鮮への植民地支配、侵略戦争と半島からの多くの朝鮮人が連行されたこと、被爆前も後も厳然とおこなわれた差別を忘れてはならないと、強く語る。
 私は、米澤さんの証言を何度か聞く機会があった。本が出され、何人かの人から「広島、長崎にも行き資料館も見た。被爆者の証言も聞いた。原爆のことは分かっていたつもりだったが、そうではなかった」という言葉を聞いた。本書は、小学館の由井りょう子さんが聞きとり、平易な文章に構成した。小学校低学年から読める。福島後を生きる子どもたちに、読んでほしい。しかし、米澤さんは「核兵器、原子力エネルギー」に慣らされてきた大人たちに、じつは語っているのかも知れない。
 米澤さんは、京都府宇治市在住。頼まれれば、どこへでも証言に出かける。