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2016年8・6ヒロシマ平和の夕べ
(以下、要旨/文責/見出しとも、「平和の夕べ」事務局)

●平和講演 「原爆を子どもたちに伝える」
         那須正幹さん(児童文学作家)
那須正幹さん
 広島で被爆した。3歳だったからよく憶えていなかったが、中学生のとき集団検診で「精密検査を要す」と言われ、初めて自分が被爆者だということを自覚した。児童文学の道に進んだが、原爆が文学になるとはなかなか思えず、被爆を題材にすることを考えていなかった。広島を離れ、自分の子どもができて原爆を書こうと思い始めた。
 平和の折り鶴で知られる佐々木禎子さんのノンフィクションを手がけようと友人に取材すると、口々に「大人たちにだまされた」「ワシはあんなものつくらせとうなかった」など言っていた。真実を書けるのは被爆者である私だ。そう思い、2年間かけて書き上げた。書き進めていくにつれ、いかに自分が原爆を知らなかったか痛感した。福島の学校へ話しに行ったとき、生徒に「私は30歳ころまでには死ぬと思っていたけど、那須さんは70を超えても元気。私たちは勇気づけられました」と言われた。年端のいかない子どもたちが30歳まで生きられないと思っている現実に、胸がしめつけられた。福島で起きていることは、ただ事ではない。
 原爆の語りを聴き、かわいそうだと泣いた児童が「自分は元気だから幸せだ」という。そうじゃないんだ。原爆は地震や台風ではない、人がやったこと。再来年は明治150年、何が素晴らしいもんか。最初の80年は戦争に次ぐ戦争。物語ではかわいそうな子どもたちが描かれるが、「すすんで戦争へ行きたがった子どもたち」の実像を書かなくてはならない。もちろん重い話ばかりじゃ売れやせんから、おもしろい話もところどころ入れてね。

●被爆証言 「私は生きた」
         池田精子さん(広島 被爆者)
池田精子さん
 被爆者の1人は、「あの日、2つ太陽を見た」という。被爆から71年、体験の語り手は高齢化し、証言の機会はますます貴重になっている。池田精子さんは「高熱が出て真夏なのに毛布を被っても寒さに苦しんだ。その後も熱が出るたび、同じようにもがき苦しんで死んでいった多くの人たちと同じように、自分も死ぬのだという恐怖にさいなまれた。話すことが私の使命なのです。聞いてほしい」と 。
 「12歳で被爆した。顔や身体に大けがを負い、皮膚移植など10数回の手術を受けた。原爆で家族と健康を失い、顔を損ない、女性としていわれない差別を受けた。生きる希望を失うまでに追いつめられた。自分と向かい合い、体験を多くの人に知ってもらい、再びこのような惨事を招くことのない世の中をつくりたい。それが自分の使命と自覚し、アメリカへも行った。
 アメリカの講演で、若者の反応は感動的だった。「知らなかった」「米国民としてお詫びする」。涙を流して自分のブレスレットを私の手にかけてくれる人もいた。その経験でアメリカにたいする憎しみを乗り越えることができた。原爆による巨大な負の遺産。「私は生きている」。被爆者自身が原爆を語り、核のない世界の実現をめざすのだ。

●福島から 「福島の現実と向きあう」
         森松明希子さん(福島・郡山市から大阪へ自主避難)
森松明希子さん
 東日本大震災、そして福島第一原発の大事故のとき、まだ1歳にならない女の子、3歳の男の子、夫と福島県の郡山市に暮らしていた。医療従事者として現地に残る夫と離れ、郡山は地震の被害は大きくなく、初めはしばらくすれば家に帰れると思っていた。テレビニュースで「東京の水道水から放射線が出た」と聞き、悩んだ末に子どもといっしょに関西に「母子」避難する道を選んだ。
 原発事故に対する政府の姿勢は、ほんとうに疑問だらけ。「直ちに健康に影響はない」と言ったが、水道水の汚染が明らかとなり、それを飲めば母親からの授乳でも赤ちゃんが体内被曝する。政府の定めた汚染区域は避難が認められるが、区域外の者が自分の判断で避難しても、単なる転居の扱いにしかならない。生活や子育てもすべてが自己責任とされる。
 私はたまたま関西の出身、実家もあり、友人も親戚もいる。それで避難場所を関西に選ぶことができたが、福島が地元、県外にツテのない人たちは避難したいと思っても避難するところがない、決断ができない。火事や洪水、津波など危険が迫れば当然避難する。しかし、目に見えない放射能の危険から避難ができないのは基本的人権の侵害ではないか。
 放射能の影響を受けやすい子どもに、汚染されているのがわかっている土地に戻れとは言えない。避難した人たちに、「風評被害を煽る」などと非難する声も後を絶たない。避難したくてもできない人たちが多数いるのに、何の手も打たずに放置している責任を、東電や政府に問わず矛先をこちらにもってきて分断する。それは違うし、許せない。
 私たちにはヒロシマ・ナガサキの被爆者の存在、運動が大きな支えとなっている。ヒロシマ・ナガサキの被爆者のみなさんが伝え訴え、苦闘されてきたことに励まされる。池田さんは「しかし、私は生きている』と言われた。私も、福島の現実と向かい合っていく。

●まとめ 「生かされた命で」  米澤鐡志さん(広島・電車内被爆者)

 私はいま、丹後半島の米軍基地反対にとりくんでいる。広島、沖縄と連帯し、この運動を継承していかなくてはならない。爆心750メートルの電車内で被爆し生きている人間は、私以外に誰もいなくなった。私は生かされていると思う。生かされた命で世の中を変えていく。