22年会場 三宅さん

− 被爆77年 8・6ヒロシマ平和の夕べ − 

 「8・6ヒロシマ平和の夕べ」、今年の平和講演は「沖縄と本土、核」について三宅俊司さん(沖縄弁護士会)が話した。被爆証言は、世界に「あの日と、その後」を発信し伝えてきた小倉桂子さん。小倉さんは「平和のためのヒロシマ通訳者グループ(HIP)」代表を務める。福島からは京都に避難している福島敦子さん。原発賠償京都訴訟にとりくみ、伊方差止広島訴訟の原告にも加わっている。それぞれ要旨を紹介する。(8月6日、広島RCC文化センター)

■沖縄に押しつけられる核 「父を返せ、母を返せ」「命どぅ宝」とは 三宅俊司さん
三宅俊司さん
「構造的差別の認識が必要」 
 政府、本土の人たちは「中国のミサイルが日本に届く」と言い立てる。一方、県知事は「覇権争いに危機感を持つ」と言っている。沖縄では、米日中の対抗から、沖縄が再び戦場にされるのではないかと不安と危機感がある。「沖縄を再び戦場にするな」という声が拡がっている。
 初めて沖縄に行ったとき、広島は「父を返せ、母を返せ」、沖縄は「命どぅ宝」、それは一つと思っていた。いまは、違うのではないかと思う。広島も含め日本は、沖縄を犠牲にして成り立っていたのではないか。差別、構造的差別と言われる問題をあらためて認識していかなければ。高江で本土から派遣された機動隊員による「土人発言」があった。基地建設をめぐる本土企業の収奪。沖縄からの盗骨。富の、学知の植民地である。自己決定権が保障されなければならない。沖縄をどう学び、連帯するか。日本は沖縄をどのように利用してきたか。捨石作戦としての沖縄戦、日本の「独立」と沖縄の米軍への売り渡し。4・28は沖縄では「屈辱の日」だ。 
 核はどうか。沖縄は日本の「非核3原則」の隠れ箕に使われてきた。「復帰」前、1300発の核爆弾、ミサイルが置かれていた。1959年には米軍が誤発射している。いま新たにミサイル防衛群が作られ、琉球列島は再び戦場にされる危機にある。ホワイトビーチには米原子力空母が寄港できる。糸満市が原子力防災対策を出しているが、「(事故などの際)1キロ以内はコンクリート建物内に、1~3キロは屋内に避難」である。核基地への対応はこの程度だ。「台湾有事」にどうするのかと言われるが、やりたければ本土で勝手にやってほしい。まさに「軍隊は住民を守らない」のだから。 

■被爆を海外に伝える  小倉桂子さん
小倉桂子さん
 海外の人たちに広島の被爆を伝えてきた。海外、欧州の核問題にかかわる人たちの多くは、当時から原爆と原発を一つの問題として捉えていた。私は何も知らなかった、辞書を引きながらだった。1983年、ニュールンベルグで反核模擬法廷が行なわれた。法廷で被爆者が証人に立つ。それを契機に平和のためのヒロシマ通訳者グループを立ち上げた。案内人ですね。資料館だけではわからない多くの被爆、ヒロシマの実相、被爆者の苦しみを伝えてきた。振り返ると45年にもなっていた。

■「静かに投下された原爆」  福島敦子さん
福島敦子さん
 南相馬から避難して伊方広島裁判原告、京都訴訟原告団などにかかわっている。地震、原発事故の直後は避難者、避難所は大混乱だった。原爆と原発事故をどう言えばいいのか…。原発の場合は「静かに投下された原爆」でしょうか。広島・長崎の被爆者の苦痛とともに、いまも福島の人々には暮らしにも心身にも苦しみが続いている。とくに子どもへの影響は多い。広島にきて「あなたたちは被曝者だよ」と言われたことが心に残っている。黒い雨裁判の勝訴に励まされた。「誰も責任をとらない原発」の実態を追及したい。

■子どもたちを放射線から守る  水戸喜世子さん
水戸喜世子さん
 プログラム最後は、水戸喜世子さん。水戸さんは、(福島第一原発事故による)「子ども脱ひばく裁判」を支える会・西日本の共同代表。「昨年、ヒロシマの黒い雨訴訟が勝利した。その原告の人たちが被爆したときと、福島の子どもたちも同じ年頃だった。裁判は、事故当時の小中学生が原告になったため来年3月に原告資格を失う。それまでに判決をかちとりたい」…。
裁判では「子どもたちが、被ばくから安全な環境で教育を受ける権利」を求め、「被ばくを避ける措置を怠った責任」を追及している。21年3月、福島地裁は訴えを退ける不当判決を下した。原告118名は仙台高裁に控訴。それらへの支援を訴えた。